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青森駅が輝いていた最後の方の映像だね。こんなにも青森駅が賑わっていた時代があったなんて信じられない。みんな飛行機、新幹線、高速バス、自家用車に移っちゃった。
はやぶさ「呼んだ?」
1984年3月に娘を出産しました😅初めての子育て頑張ってました😂とても可愛い女の子に成長して今は5歳の女の子のママです😅私自身も30歳まだまだピチピチしてました😂ああどこでもドアあればあの時代に戻りたいですね😅
今思えば、ほんとうに懐かしい。携帯電話が無い時代特急の車内にある公衆電話で時刻表の広告を見ながら宿の予約をしていました。連絡線鈍行夜行旧型客車少年の頃の思い出この動画であの頃を思い出します。
懐かしい。この何年か前、初めて北海道に行き、改めて「みちのく」を縦断することや海峡を渡る大変さを知った。今では、貴重な『旅』の想い出。
思わず29歳当時の自分が映像に映ってはしまいかと見てしまった。当然映ってるはずもないのだが、人生も終盤にさしかかり昔が偲ばれる映像は好きだ。あの行商のおばちゃんと同い年だが、妙におばちゃんが年寄りに見えてしまう。
国鉄時代の電車でなんでこんなにカッコいいんだろか
昭和51年3月、当時高校生だった私は、大阪行白鳥の窓から上野行はつかり1号を見ていたことを思い出しました。急行十和田で渡道、ニセコ、からまつ、オロハネ10連結の利尻、大雪なども乗れたのが想い出です。
韓国人ですが、あの昭和時代の懐かしさを感じますなんか暖かい感じの世界ですね
三厩や竜飛岬、青森駅に行ったのは30年以上前、その頃の風景が脳裏からよみがえりました!
68歳おじぃーです札幌出身ですが、懐かしい‼️帰省でよく使いましたありがとうございました🤓
68歳? 若い、若い、羨ましい。岡山生まれで国鉄の列車時刻表と地図さえ在れば旅の夢が浮んだその昔、学割切符は二枚、三枚買って貰って急行日本海寝台は高すぎたので、大阪から青森まで座席で、青函連絡船の雑魚寝広場ではぐっすり寝込んだのは昨日の様に思い出す。新幹線で東北、北海道へ行くのは全く旅心が無いので、最近は新潟、八戸などからフェリーで苫小牧へ。フェリーは青函連絡船には勝てないが、新幹線で海峡を渡るより百倍いい。
@@SandyQuest-g2t 僕にとっても新幹線は本当の旅行用ではなくて、ポイントAからポイントBへいち早く移動するかのビジネスとか大急ぎの時に使うが、”旅を楽しむ”、”ローコルの人を出会う’には在来線、フェリー、ローコル・バス、車中泊のキャンパーを使う。
懐かしい今ではこのような光景は見れないからこのような貴重な映像は永遠に残すべき青森駅は改築しているがため今はこの駅は見れない。当時は賑わいがあり活気もありよかった。
凄くいい動画ですね!昭和のころの元気な姿が伝わる貴重な青森の姿ですね!子供達にも見せたいと思いました。
この時は車窓見てる人も多かっただろうから地理に詳しい人多かったろうな。今より旅情や黄昏を理解出来る人が多そうだ。
こんな鉄道ドキュメント、最近では滅多にお目にかかれなくなった。画面の中ではしゃぐ芸人や鉄子なんかホントいらない。もっと哀愁を感じさせる、こんな玄人感が欲しい。
kitaca kaffe ほんとうにそうですね。
吉本とか大手事務所が制作に干渉するようになって民放ドキュメント番組が隅に追いやられるか、または3流芸人がバラエティ番組のノリでレポートするような俗悪なのばかりになってしまいましたね……
年取って分かりました。最近のテレビはエセ関西弁や、過剰な放送とかもう観るに堪えれません。ドキュメンタリー番組とかを増やしてほしいジャニタレやクサレ芸人、なんちゃって知識人はもう出ないで下さい
激しく同意(👍 ̄▽ ̄)👍
太宰治の一節が紹介されるとか味があるなぁ。
中学生の時夏休み、三厩駅まで行きましたが、ほとんど海岸線を走り半袖だったので寒かった思い出があります😅
懐かしく拝見させていただきました。あのころちょうど青森駅へ勤務し始めた頃でした。当時の駅長さん、助役さんを見て思い出しました。
はくつる ゆうづる はつかり 白鳥何もかも懐かしい…みんな思い出の彼方に行ってしまった。
東北新幹線も夕方5時頃から「ゆうずる1号」とか名前を変更しても良いかと^_^
@@maochanhappy 到着が翌朝になるけど…😉
@@maochanhappyゆうずるって何?(草)
はやぶさ「ふわぁ💤」ゆうづる「なあに?このだらけた列車は💢」
この時代の時間軸の中で生きてみたいなぁ
活気があって風情があって夜行や長距離特急もあって良いですね。
懐かしいな、永遠に見入ってしまうよ。
青函連絡船は天候の影響を受けるから、さぞ大変だったはず。駅に着いて初めて欠航を知ることもあったんだろうなぁ。
この時代の国内移動は鉄道が主でしたから様々な列車が全国を走っていました。多くの子供の夢は鉄道の運転手。まだ青函トンネルはありませんでしたから青森は全ての列車の終着駅。北海道にはここで連絡船に乗ることになります。青函連絡船も国鉄の運営でしたね。
感動してます。今も両親が暮らしてる旧東北本線乙供駅前に実家があり、ちょうど、高校2年生に放送されたんですね。青森駅や行商のおばあちゃん、それに富山大学受験で乗った寝台特急日本海のことなどを思い出しました。ほんとまだこの頃は活気がありました。アップありがとうございました‼️
寝台車の同時代に生きていながら特別の思いを持って映像を見ました。はつかりとか名前は聞くけど実物を初めて見る事が出来て感動しました。
連絡船の駅は本州側が何か侘しい淋しい感じが有る。宇野駅もそう、青森もそう、青森は更に寂れてますね。
懐かしい映像がトップページに出てきましたので拝見しました。この年の夏、高1で初めての北海道一人旅に。帰路が正に青函連絡船→八甲田の流れでした。まだまだ北海道と内地(本州)の移動で鉄道利用が多く、深夜早朝の賑やかさが懐かしく、胸が熱くなります。
まさにこの頃、20台の私はここを通り青函連絡船に乗って横浜から北海道に行ってました。懐かしすぎます。
懐かしいですね、中学の修学旅行が北海道で八甲田丸と十和田丸に乗りました
ホームに、汽車が到着したときのアナウンス思い出すあお~もり~・あお~もり~ って
この時代きたぐには既に新潟止まりになっていたが、急行も津軽八甲田十和田とあったんだな。
この放送から数年後に、親の転勤で青森に住んでいた事があり、青森に関わる全ての、夜行急行、特急、寝台特急に乗れました。非常に幸運で幸せでした。駅に到着した時の、駅名のアナウンス、切符の鋏の音が懐かしい。当時は無かった青森中央大橋あたりの、信号所でずっと車両を眺めていた。あの時が蘇る・・・
😊 媠ロルラ蠡ららララら
はやぶさ「ふわぁ💤」白鳥「だらけた列車ね」
青函トンネル開通の年に生まれたので、青函連絡船が行き来する光景、客車列車、急行八甲田等がとても新鮮に思えます。それにゆうづる、はくつる、はつかり、白鳥…乗る前に廃止されてしまいとても悔しい思いをした列車がどんどん出てきていいなぁ…なんて。
私の伯父が長年青森駅に勤めておりました。定年退職後は第三セクターの青い森鉄道に出向しているようですが、現在も青森駅に勤務しております。国鉄時代の話を聞く機会があれば一度この映像の頃のことを聞いてみたいものです。
良い出向ですね?わたしは、行きたくない出向で、辞めたい!
@@佐藤久雄-r8rさん頑張ってください仕事をやりぬいてください
すごい鉄道ファンにはたまらないですね!
現在の青森駅と比べて活気があったな
懐かしすぎる(泣)何度連絡船を使って往復したことか。
連絡船に接続する優等列車は青森到着前に「連絡船ご乗船のお客様は連絡船名簿に必要事項をご記入の上、乗船の際に係員にお渡しください」的なアナウンスがあって車掌さんが名簿の用紙を配ってくれましたね。このアナウンスを聞くといよいよ北海道だなぁ、という思いを抱いたものですが・・・1960年代生まれの独り言でした。
当時の演歌などの歌謡曲でこういった光景をモチーフに曲が作られるのも、これを見れば納得。鉄道員も旅客も街の人達もみんなが主役。
歌います
国鉄時代は数年しか記憶にないけど確かにこんな感じだったな
はやぶさ「ふわぁ💤」JR東日本「また寝てる」
夜行の青函連絡船。懐かしのホームと跨線橋。白鳥に乗ったこと思い出します。みうまやだ!三厩をみうまやと表示されている!懐かしい!今は、みんまやと読む。
青函連絡船が青森に到着して間もなくの発車ということで、随分と賑わっていた記憶があります。
以前コメしたと思ったら初コメなので。懐かしい特急に連絡船ばかり、特に、はつかり号と八甲田号は、乗った連絡船は夜便ばかり乗船したものだ。
当時東京で学生生活を送り北海道周遊券で帰省していた青森駅のKIOSKのお嬢さんが鄙にもまれなべっぴんさんだったなぁはまなすや八甲田お世話になりました
一度、テレビで見た記憶があります。それと、急行 八甲田号 終点の青森まで乗りましたけど、座席だと流石に疲れましたね。懐かしい思い出です。
ボックスシートですね。この頃の列車には乗った事ありませんが、繁忙期の臨時列車としては、平成初期頃まで、ボックスシートの車両が使われてました。当方は、青森から上野まで乗りましたが、半日近くあの座席は、やはり疲れました。
当時、福島駅から東北本線で青森駅に行きました。青函連絡船の待合室で一晩過ごして多くの特急-急行列車を撮影した事を思い出します。良い時代でした。貴重な映像ありがとうございました!!
583系、485系、12系・・・国鉄のの近代化に貢献した車両が特急や急行で幅を利かせていた時代ですね。その一方で地方路線の各停にはまだ旧客が残っているのも興味深い
僕は一度しか青函連絡船に乗ったことがないけれど、今でも石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」を聞くと、例え青森駅に到着する列車が上野発だけではないにせよ、近くの桟橋に連絡船がスタンバイしている光景が想像できるのは不思議だな。
ネットのない時代だからこそ、初めて行く場所の全てが新鮮で、思いがけない出会いや発見があって旅行がめちゃくちゃ面白かった時代。
新青森駅に続き新函館北斗駅開業で、青森駅の存在感が益々薄くなる。時代の流れってやつですね
こういう鉄道の旅も味があって良いね。
懐かしいですね、子供の頃母に連れられて、青函連絡船によく乗りました。4時間近くかかるので、食堂で海峡ラーメンの塩味を必ず食べ、ホタテの貝柱、ホヤの干物を買って、雑魚寝してました。桟橋を離れる時のドラの音が聞こえるようです。
はくつる、はつかり、白鳥❗八甲田❗名車ばかりですね✨昭和に戻りたい
すっごくいいです!僕は糸魚川からはくちょうを大阪まで、よく利用していたので感動しました。この頃は青森も元気でよかったですね~。貴重な映像ありがとう!!
昨年、還暦を迎えました。津軽で生れ育ちました。私が小学生の頃の修学旅行先は函館でした。生まれて初めて青函連絡船に乗りました。中学生の修学旅行先は東京でした。特急列車でしたが、8時間位かかった記憶ガーラあります。高校生の修学旅行先は京都、奈良へ行きました。寝台車でした。懐かしい思い出が蘇ります。又乗ってみたいです。確かにあの時代は今以上に人も多く、活気がありました。
来年北海道新幹線が開通しても津軽線はまだまだ生き残ります
津軽線はJR東の範囲内ということで青函トンネル開通や北海道新幹線開業でもしぶとく生き残ったそうで......
東北新幹線が初めて開通(最初は、大宮盛岡間)して約1年後の青森駅ですね。盛岡から乗り換えの「はつかり」が増発され、青森と東京の所要時間が大分短縮されたとはいえ、青森から首都圏までは当時、まだまだ遠かった。
昼行(?)特急での青森から大阪行き…今では考えられないくらいの距離だ…
ネットオークションで昔の時刻表を買ったが、急行「きたぐに」は、運行末期は「大阪~新潟」でしたが、かつては、何と青森発着で運行されていました。ただし、新潟以北は、寝台車両は切り離しされてました。日本交通公社(現:JTB)発行1982年9月号時刻表によると、特急『白鳥』が青森4時50分発大阪18時25分着(所要13時間35分)、急行『きたぐに』が青森12時55分発大阪翌日8時27分着(所要時間19時間32分)でした。
乗り通したことあるけどマジでしんどかった。半分闇夜を走るだけだし。
オイラも乗った経験ありますが、疲れました。しか覚えていません。
懐かしいです。青森駅の連絡船待合室。涙ものですね。0時くらいの連絡船に函館で乗船し大阪行き白鳥をよく利用しました。八甲田も懐かしい。
高校時代修学旅行で釧路~上野まで列車~連絡船~寝台列車と丸一日かけて行ったのが懐かしい。
私は函館だったので、高校の修学旅行は連絡船と汽車で済みました。連絡船の前に汽車で函館まではかなり大変でしたね。いろいろ不便な時代でしたが、それが今となっては懐かしいですね。若さ故でしょうが懐かしい大切な思い出がいっぱいあります。
急行八甲田か懐しいな。下り青森行には結構乗ったなぁ。青森に着く頃には尻が痛く成った。
急行八甲田、当方は帰省Uターンで、上野行臨時の八甲田に乗ったが、あの席ではなかなか寝られなかったね。
当時のオンボロ操作板で、ちゃんとポイントが切り替わっていたのが凄い。
今の青森駅がこんなに賑やかだったとは…
当時の東北線の青森口、普通列車の運転本数は9本(往復で18本)で優等列車の運転本数の方が遥かに多かった。但し運転区間はかなり長い列車が多かった(最南端は原ノ町(常磐線)だったり) 今のような『系統分離』が当たり前のぶつ切り列車は皆無でした(最も電車の普通列車は無く、客車列車やディーゼルカーの普通列車・所謂『架線下DC』だった)。
全然寝れないじゃないですか寝る間もない本当にお疲れ様です。
こんな素晴らしい動画を令和の時代に見れるとは・・・・旧客列車が津軽線の定期列車として走っていたシーン(5:20ごろ)も実に興味深い。
画像に出てくる津軽線の列車、青森5時13分発で、途中は奥内・蓬田のみ停車し、蟹田5時49分着の休日運休列車です。数日前に、ヤフオクで買った日本交通公社発行1984年9月号大型時刻表の津軽線のページから。
北海道周遊券で上野から行きましたね。懐かしいですね。パソコンが無い時代で大変でしたね。72歳です。サラリーマンの時は飛行機でした。
青森や北海道へ寝台特急、寝台急行、MOTO TRAIN、利用して行きましたね。 八戸手前で夜が明けてきて八甲田山?を見ながらデッキでタバコ吸っていた良き時代だった。
まだ青函トンネルが開通する前か…(生まれる数日前に放送された番組です)。
北海道新幹線はJR北海道、津軽線はJR東日本という訳で並行在来線にはならず、今のところ廃止の予定は無いようです。
残しておきたい風景ですね☺️
配信を、ありがとうございます。青函連絡船ですね。今から47年前に、1回だけ乗りました。どうしても、体験したかったからです。
この時私は高校生。学校が弘前だったので6:00の鈍行で通学していました。連絡船があった頃は、平日でも早朝から人でごった返していた新町。本当にいい時代でした。その後の新幹線新青森駅誘致やコンパクトシティ化の政策失敗で、衰退の一途を辿ったのは本当に残念です。
この後に青函トンネルと新千歳空港が開港。時代の流れは一気に変わっていきましたね
青森は福岡県からは遠くて他国見たい🗾地図でみるとほんの10センチですが私は中学校を卒業すると川崎市の工業地帯の工場で働いてましたが北に遊びに行ったのは上野動物園近辺が最も上で北海道は私には他国でしかあり得ない地でした動画を見ても同じ気持ちになりますが動画を投稿された方少しだけでも北海道の地に足を踏み入れた気持ちを感謝しありがとうございます😌
とっても とっても懐かしい
人情も、風情も、哀愁も、旅情も、この時代にはあった。全てがあった。
どこでも何時でも使えるポケットに入る電話(ほぼ)いつでもお金を下ろせる24時間営業している店がある青森日帰りができる失った代わりに得たものも多い😊
昨日上野駅行く機会があり久しぶりに一階ホームに立ち寄りました。233が1本停まってただけの閑散でした。あさま・ひたちの同時発車寝台特急の推進運転この時代に大人だったら絶対旅行したな〜今は今で便利になってるから過去の人から見たら贅沢って思われちゃうかもしれないけど。
NHKのドキュメント72っていう番組があるんだけど、この時代の青森駅を特集して欲しかった
懐かしい、小学生や中学生だけだと必ず鉄道公安官らしき人に声をかけられた。ある時は本当に逃亡者のための検問やったりしていて、緊張してましたね。
凄ったんですね、青森駅。列車の本数がたくさん。急行八甲田、急行津軽乗ったなぁ。上野行。
この時代、北海道に行くという事は時間もかかって何度も乗り換えて本当に大変な事だったんだろうなあそれでも色んな風景に浸れると言う贅沢はあったんだろうな…
SHOSHO319 流石に昭和50年代には飛行機が主流ですよ。
乗り換えは青森の1回だけだよ!😜
三十数年前ここで仕事してましたが、本当に懐かしい映像の数数デシタネ上野さんや菊池駅長懐かしいなー.皆どうしてるかなー
新幹線がある今勢力は衰えてますがフェリーはまだまだ現役です。
懐かしい!青森駅がいちばん輝いていた時ですね。このころ私も新米のポッポ屋でした。
賑やかだな。青森は今みたいに寂れていないんだろうな
このころは、僕はまだ生まれてませんが、昔の青森駅の様子がよくわかります。貴重な映像ですね。
♪ああ~津軽海峡冬景色~
はやぶさ「石川さゆり」
青函連絡船の廃止前に乗りに行きましたね。ホテルシップなんてのをやってました。
5:35 津軽線の車両は旧客(いわゆるレトロ風)だったんだね…😯今は🚋701系(青森~蟹田)と🚞キハ40系&キハ48系(蟹田~三厩)だけど😌
懐かしいですね。90年代は中国大陸で寝台列車を満喫しました。
白鳥2号は、こんな早い時間でも人が乗ってるなんて、驚きました。
青森4時30分着の青函連絡船からの乗り換え客も結構いましたね。
当直の助役さん、地道な安全作業お疲れさまです。
乗ってみたかったです。石川さゆりさんの津軽海峡冬景色を聴きながら
戻りたいね。昭和に戻りたいよ。寝台車が普通に走っていた時代に・・・
別室調査 想い同じく。自分の最後の寝台は大阪発の急行きたぐにでした。
寝台急行ですかぁ…
その通り。あの頃はまだ旅情があった。
神茂樹 今や鉄道は移動の手段でしか無くなりましたね。嫁に汽車旅の魅力を伝えても「交通手段が目的になってる。あり得ない」と全否定されます。風流を解さない人は味気ない人が多いですね。
ペラペラPV 旅情を求めるのなんか一部の鉄オタとジジイだけで普通の利用者は速さと快適性を求めるんだよ、気に入らないならバス使って北海道行けよ笑
行商さんも昭和でぱったりと見なくなってしまいました。気の利いた品揃えが良かったです。
家🏠️の近所では平成後期までいたよ@東京23区😉
乗客が車内でタバコ吸っているところに時代を感じた
近鉄は去年まで吸えたけどね
fal5110 ええ〜ほんと。
この時代は煙草が悪者にされていなかったから、国鉄は都市部の通勤路線を除いて普通列車でも灰皿が付いているのが当たり前。車内のシーンで窓の下にある四角のやつ。最近まで東海道新幹線700系と近鉄特急には喫煙車がありました。健康増進法というやり過ぎ法で消されました。嫌煙者と完全に分けるなら、吸いたい人には吸わせときゃいいのに。
それだけ鉄道の社会的存在が重要な証拠。鉄道だと今の新幹線🚅の喫煙室🚬にも文句言う奴がいるが、長距離フェリー🚢にも喫煙室🚬あるけど文句聞いた事ないよ😉あと、この動画の頃は東武鉄道の伊勢崎線系統の普通・準急・快速は禁煙区間:浅草~館林・新栃木、亀戸線、大師線、野田線だった😉
このときの白鳥は確か青森ー大阪間約1000kmを12時間掛けて走破する最長の昼行特急だったな
はくつる、急行八甲田が出発してから数時間で特急白鳥、はつかりが出発する。ほとんど眠らない青森駅も、青函トンネルが開通し、寝台特急がなくなり新幹線が開通し、寂しくなりましたね。
青函トンネル開通して北斗星、カシオベア、トワイライトエクスプレス、エルム等があった頃の深夜は、また違う賑わいうりましたよ。午前2時台は上下北斗星にトワイライトエクスプレス行き違いもあり華やかでした!
青函連絡船に何度も乗りましたがその当時は何とも思わない日常の風景でしたが久しぶりに見てもう一度乗ってみたい。
個人的に思い入れが深いのは、急行八甲田&津軽ですね。関東出身の某大学生の、貴重な帰省列車でした。新幹線?まだ実感わかないなぁ。時代の流れ、ですか・・・
行商のおばちゃんなんてもうほとんど見なくなっちゃったなぁ
新幹線が通った今よりこの頃の方が活気があるように見えるのは気のせいでしょうか。
そりゃそうでしょう今は新幹線だけでなく飛行機や自動車網が発達したから
早すぎて旅情がない。行くぞ!の気合が違うのかも・・・
青森駅が輝いていた最後の方の映像だね。
こんなにも青森駅が賑わっていた時代があったなんて信じられない。
みんな飛行機、新幹線、高速バス、自家用車に移っちゃった。
はやぶさ「呼んだ?」
1984年3月に娘を出産しました😅初めての子育て頑張ってました😂とても可愛い女の子に成長して今は5歳の女の子のママです😅私自身も30歳まだまだピチピチしてました😂ああどこでもドアあればあの時代に戻りたいですね😅
今思えば、ほんとうに懐かしい。
携帯電話が無い時代
特急の車内にある公衆電話で
時刻表の広告を見ながら
宿の予約をしていました。
連絡線
鈍行夜行
旧型客車
少年の頃の思い出
この動画であの頃を思い出します。
懐かしい。この何年か前、初めて北海道に行き、改めて「みちのく」を縦断することや海峡を渡る大変さを知った。
今では、貴重な『旅』の想い出。
思わず29歳当時の自分が映像に映ってはしまいかと見てしまった。当然映ってるはずもないのだが、人生も終盤にさしかかり昔が偲ばれる映像は好きだ。あの行商のおばちゃんと同い年だが、妙におばちゃんが年寄りに見えてしまう。
国鉄時代の電車でなんでこんなにカッコいいんだろか
昭和51年3月、当時高校生だった私は、大阪行白鳥の窓から上野行はつかり1号を見ていたことを思い出しました。急行十和田で渡道、ニセコ、からまつ、オロハネ10連結の利尻、大雪なども乗れたのが想い出です。
韓国人ですが、あの昭和時代の懐かしさを感じます
なんか暖かい感じの世界ですね
三厩や竜飛岬、青森駅に行ったのは30年以上前、その頃の風景が脳裏からよみがえりました!
68歳おじぃーです
札幌出身ですが、懐かしい‼️
帰省でよく使いました
ありがとうございました🤓
68歳? 若い、若い、羨ましい。
岡山生まれで国鉄の列車時刻表と地図さえ在れば旅の夢が浮んだその昔、学割切符は二枚、三枚買って貰って急行日本海寝台は高すぎたので、大阪から青森まで座席で、青函連絡船の雑魚寝広場ではぐっすり寝込んだのは昨日の様に思い出す。
新幹線で東北、北海道へ行くのは全く旅心が無いので、最近は新潟、八戸などからフェリーで苫小牧へ。
フェリーは青函連絡船には勝てないが、新幹線で海峡を渡るより百倍いい。
@@SandyQuest-g2t 僕にとっても新幹線は本当の旅行用ではなくて、ポイントAからポイントBへいち早く移動するかのビジネスとか大急ぎの時に使うが、”旅を楽しむ”、”ローコルの人を出会う’には在来線、フェリー、ローコル・バス、車中泊のキャンパーを使う。
懐かしい
今ではこのような光景は見れないからこのような貴重な映像は永遠に残すべき
青森駅は改築しているがため今はこの駅は見れない。
当時は賑わいがあり活気もありよかった。
凄くいい動画ですね!昭和のころの元気な姿が伝わる貴重な青森の姿ですね!
子供達にも見せたいと思いました。
この時は車窓見てる人も多かっただろうから地理に詳しい人多かったろうな。今より旅情や黄昏を理解出来る人が多そうだ。
こんな鉄道ドキュメント、最近では滅多にお目にかかれなくなった。画面の中ではしゃぐ芸人や鉄子なんかホントいらない。もっと哀愁を感じさせる、こんな玄人感が欲しい。
kitaca kaffe ほんとうにそうですね。
吉本とか大手事務所が制作に干渉するようになって民放ドキュメント番組が隅に追いやられるか、または3流芸人がバラエティ番組のノリでレポートするような俗悪なのばかりになってしまいましたね……
年取って分かりました。
最近のテレビはエセ関西弁や、過剰な放送とかもう観るに堪えれません。
ドキュメンタリー番組とかを増やしてほしい
ジャニタレやクサレ芸人、なんちゃって知識人はもう出ないで下さい
激しく同意(👍 ̄▽ ̄)👍
太宰治の一節が紹介されるとか味があるなぁ。
中学生の時夏休み、三厩駅まで行きましたが、ほとんど海岸線を走り半袖だったので寒かった思い出があります😅
懐かしく拝見させていただきました。
あのころちょうど青森駅へ勤務し始めた頃でした。
当時の駅長さん、助役さんを見て思い出しました。
はくつる ゆうづる はつかり 白鳥
何もかも懐かしい…みんな思い出の彼方に行ってしまった。
東北新幹線も夕方5時頃から「ゆうずる1号」とか名前を変更しても良いかと^_^
@@maochanhappy 到着が翌朝になるけど…😉
@@maochanhappyゆうずるって何?(草)
はやぶさ「ふわぁ💤」
ゆうづる「なあに?このだらけた列車は💢」
この時代の時間軸の中で生きてみたいなぁ
活気があって風情があって夜行や長距離特急もあって良いですね。
懐かしいな、永遠に見入ってしまうよ。
青函連絡船は天候の影響を受けるから、さぞ大変だったはず。駅に着いて初めて欠航を知ることもあったんだろうなぁ。
この時代の国内移動は鉄道が主でしたから様々な列車が全国を走っていました。多くの子供の夢は鉄道の運転手。まだ青函トンネルはありませんでしたから青森は全ての列車の終着駅。北海道にはここで連絡船に乗ることになります。青函連絡船も国鉄の運営でしたね。
感動してます。今も両親が暮らしてる旧東北本線乙供駅前に実家があり、ちょうど、高校2年生に放送されたんですね。青森駅や行商のおばあちゃん、それに富山大学受験で乗った寝台特急日本海のことなどを思い出しました。ほんとまだこの頃は活気がありました。アップありがとうございました‼️
寝台車の同時代に生きていながら特別の思いを持って映像を見ました。はつかりとか名前は聞くけど実物を初めて見る事が出来て感動しました。
連絡船の駅は本州側が何か侘しい淋しい感じが有る。宇野駅もそう、青森もそう、青森は更に寂れてますね。
懐かしい映像がトップページに出てきましたので拝見しました。
この年の夏、高1で初めての北海道一人旅に。帰路が正に青函連絡船→八甲田の流れでした。
まだまだ北海道と内地(本州)の移動で鉄道利用が多く、深夜早朝の賑やかさが懐かしく、胸が熱くなります。
まさにこの頃、20台の私はここを通り青函連絡船に乗って横浜から北海道に行ってました。
懐かしすぎます。
懐かしいですね、中学の修学旅行が北海道で八甲田丸と十和田丸に乗りました
ホームに、汽車が到着したときのアナウンス思い出す
あお~もり~・あお~もり~ って
この時代きたぐには既に新潟止まりになっていたが、急行も津軽八甲田十和田とあったんだな。
この放送から数年後に、親の転勤で青森に住んでいた事があり、
青森に関わる全ての、夜行急行、特急、寝台特急に乗れました。非常に幸運で幸せでした。
駅に到着した時の、駅名のアナウンス、切符の鋏の音が懐かしい。
当時は無かった青森中央大橋あたりの、信号所でずっと車両を眺めていた。あの時が蘇る・・・
😊 媠ロルラ蠡ららララら
はやぶさ「ふわぁ💤」
白鳥「だらけた列車ね」
青函トンネル開通の年に生まれたので、青函連絡船が行き来する光景、客車列車、急行八甲田等がとても新鮮に思えます。
それにゆうづる、はくつる、はつかり、白鳥…乗る前に廃止されてしまいとても悔しい思いをした列車がどんどん出てきていいなぁ…なんて。
私の伯父が長年青森駅に勤めておりました。定年退職後は第三セクターの青い森鉄道に出向しているようですが、現在も青森駅に勤務しております。
国鉄時代の話を聞く機会があれば一度この映像の頃のことを聞いてみたいものです。
良い出向ですね?わたしは、行きたくない出向で、辞めたい!
@@佐藤久雄-r8rさん頑張ってください
仕事をやりぬいてください
すごい
鉄道ファンにはたまらないですね!
現在の青森駅と比べて活気があったな
懐かしすぎる(泣)
何度連絡船を使って往復したことか。
連絡船に接続する優等列車は青森到着前に「連絡船ご乗船のお客様は連絡船名簿に必要事項をご記入の上、乗船の際に係員にお渡しください」的なアナウンスがあって車掌さんが名簿の用紙を配ってくれましたね。このアナウンスを聞くといよいよ北海道だなぁ、という思いを抱いたものですが・・・1960年代生まれの独り言でした。
当時の演歌などの歌謡曲で
こういった光景をモチーフに
曲が作られるのも、これを見れば納得。
鉄道員も旅客も街の人達も
みんなが主役。
歌います
国鉄時代は数年しか記憶にないけど
確かにこんな感じだったな
はやぶさ「ふわぁ💤」
JR東日本「また寝てる」
夜行の青函連絡船。
懐かしのホームと跨線橋。
白鳥に乗ったこと思い出します。
みうまやだ!三厩をみうまやと表示されている!懐かしい!今は、みんまやと読む。
青函連絡船が青森に到着して間もなくの発車ということで、随分と賑わっていた記憶があります。
以前コメしたと思ったら初コメなので。
懐かしい特急に連絡船ばかり、特に、はつかり号と八甲田号
は、乗った連絡船は夜便ばかり乗船したものだ。
当時東京で学生生活を送り
北海道周遊券で帰省していた
青森駅のKIOSKのお嬢さんが鄙にもまれなべっぴんさんだったなぁ
はまなすや八甲田お世話になりました
一度、テレビで見た記憶があります。それと、急行 八甲田号 終点の青森まで乗りましたけど、座席だと流石に疲れましたね。懐かしい思い出です。
ボックスシートですね。この頃の列車には乗った事ありませんが、繁忙期の臨時列車としては、平成初期頃まで、ボックスシートの車両が使われてました。当方は、青森から上野まで乗りましたが、半日近くあの座席は、やはり疲れました。
当時、福島駅から東北本線で青森駅に
行きました。
青函連絡船の待合室で一晩過ごして
多くの特急-急行列車を撮影した事を
思い出します。
良い時代でした。
貴重な映像ありがとうございました!!
583系、485系、12系・・・
国鉄のの近代化に貢献した車両が特急や急行で幅を利かせていた時代ですね。
その一方で地方路線の各停にはまだ旧客が残っているのも興味深い
僕は一度しか青函連絡船に乗ったことがないけれど、今でも石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」を聞くと、例え青森駅に到着する列車が上野発だけではないにせよ、近くの桟橋に連絡船がスタンバイしている光景が想像できるのは不思議だな。
ネットのない時代だからこそ、初めて行く場所の全てが新鮮で、思いがけない出会いや発見があって旅行がめちゃくちゃ面白かった時代。
新青森駅に続き新函館北斗駅開業で、青森駅の存在感が益々薄くなる。
時代の流れってやつですね
こういう鉄道の旅も味があって良いね。
懐かしいですね、子供の頃母に連れられて、青函連絡船によく乗りました。4時間近くかかるので、食堂で海峡ラーメンの塩味を必ず食べ、ホタテの貝柱、ホヤの干物を買って、雑魚寝してました。桟橋を離れる時のドラの音が聞こえるようです。
はくつる、はつかり、白鳥❗八甲田❗名車ばかりですね✨昭和に戻りたい
すっごくいいです!僕は糸魚川からはくちょうを大阪まで、よく利用していたので感動しました。この頃は青森も元気でよかったですね~。貴重な映像ありがとう!!
昨年、還暦を迎えました。津軽で生れ育ちました。私が小学生の頃の修学旅行先は函館でした。生まれて初めて青函連絡船に乗りました。中学生の修学旅行先は東京でした。特急列車でしたが、8時間位かかった記憶ガーラあります。高校生の修学旅行先は京都、奈良へ行きました。寝台車でした。懐かしい思い出が蘇ります。又乗ってみたいです。確かにあの時代は今以上に人も多く、活気がありました。
来年北海道新幹線が開通しても津軽線はまだまだ生き残ります
津軽線はJR東の範囲内ということで青函トンネル開通や北海道新幹線開業でもしぶとく生き残ったそうで......
東北新幹線が初めて開通(最初は、大宮盛岡間)して約1年後の青森駅ですね。盛岡から乗り換えの「はつかり」が増発され、青森と東京の所要時間が大分短縮されたとはいえ、青森から首都圏までは当時、まだまだ遠かった。
昼行(?)特急での青森から大阪行き…今では考えられないくらいの距離だ…
ネットオークションで昔の時刻表を買ったが、急行「きたぐに」は、運行末期は「大阪~新潟」でしたが、かつては、何と青森発着で運行されていました。ただし、新潟以北は、寝台車両は切り離しされてました。日本交通公社(現:JTB)発行1982年9月号時刻表によると、特急『白鳥』が青森4時50分発大阪18時25分着(所要13時間35分)、急行『きたぐに』が青森12時55分発大阪翌日8時27分着(所要時間19時間32分)でした。
乗り通したことあるけどマジでしんどかった。半分闇夜を走るだけだし。
オイラも乗った経験ありますが、疲れました。しか覚えていません。
懐かしいです。
青森駅の連絡船待合室。涙ものですね。
0時くらいの連絡船に函館で乗船し大阪行き白鳥をよく利用しました。
八甲田も懐かしい。
高校時代修学旅行で釧路~上野まで列車~連絡船~寝台列車と丸一日かけて行ったのが懐かしい。
私は函館だったので、高校の修学旅行は連絡船と汽車で済みました。
連絡船の前に汽車で函館まではかなり大変でしたね。
いろいろ不便な時代でしたが、それが今となっては懐かしいですね。
若さ故でしょうが懐かしい大切な思い出がいっぱいあります。
急行八甲田か懐しいな。下り青森行には結構乗ったなぁ。青森に着く頃には尻が痛く成った。
急行八甲田、当方は帰省Uターンで、上野行臨時の八甲田に乗ったが、あの席ではなかなか寝られなかったね。
当時のオンボロ操作板で、ちゃんとポイントが切り替わっていたのが凄い。
今の青森駅がこんなに賑やかだったとは…
当時の東北線の青森口、普通列車の運転本数は9本(往復で18本)で優等列車の運転本数の方が遥かに多かった。但し運転区間はかなり長い列車が多かった(最南端は原ノ町(常磐線)だったり) 今のような『系統分離』が当たり前のぶつ切り列車は皆無でした(最も電車の普通列車は無く、客車列車やディーゼルカーの普通列車・所謂『架線下DC』だった)。
全然寝れないじゃないですか
寝る間もない
本当にお疲れ様です。
こんな素晴らしい動画を令和の時代に見れるとは・・・・旧客列車が津軽線の定期列車として走っていたシーン(5:20ごろ)も実に興味深い。
画像に出てくる津軽線の列車、青森5時13分発で、途中は奥内・蓬田のみ停車し、蟹田5時49分着の休日運休列車です。数日前に、ヤフオクで買った日本交通公社発行1984年9月号大型時刻表の津軽線のページから。
北海道周遊券で上野から行きましたね。懐かしいですね。パソコンが無い時代で大変でしたね。72歳です。サラリーマンの時は飛行機でした。
青森や北海道へ寝台特急、寝台急行、MOTO TRAIN、利用して行きましたね。
八戸手前で夜が明けてきて八甲田山?を見ながらデッキでタバコ吸っていた良き時代だった。
まだ青函トンネルが開通する前か…(生まれる数日前に放送された番組です)。
北海道新幹線はJR北海道、津軽線はJR東日本という訳で並行在来線にはならず、今のところ廃止の予定は無いようです。
残しておきたい風景ですね☺️
配信を、ありがとうございます。
青函連絡船ですね。
今から47年前に、1回だけ乗りました。
どうしても、体験したかったからです。
この時私は高校生。学校が弘前だったので6:00の鈍行で通学していました。
連絡船があった頃は、平日でも早朝から人でごった返していた新町。本当にいい時代でした。
その後の新幹線新青森駅誘致やコンパクトシティ化の政策失敗で、衰退の一途を辿ったのは本当に残念です。
この後に青函トンネルと新千歳空港が開港。時代の流れは一気に変わっていきましたね
青森は福岡県からは遠くて他国見たい🗾地図でみるとほんの10センチですが私は中学校を卒業すると川崎市の工業地帯の工場で働いてましたが北に遊びに行ったのは上野動物園近辺が最も上で北海道は私には他国でしかあり得ない地でした動画を見ても同じ気持ちになりますが動画を投稿された方少しだけでも北海道の地に足を踏み入れた気持ちを感謝しありがとうございます😌
とっても とっても懐かしい
人情も、風情も、哀愁も、旅情も、この時代にはあった。全てがあった。
どこでも何時でも使えるポケットに入る電話
(ほぼ)いつでもお金を下ろせる
24時間営業している店がある
青森日帰りができる
失った代わりに得たものも多い😊
昨日上野駅行く機会があり久しぶりに一階ホームに立ち寄りました。
233が1本停まってただけの閑散でした。
あさま・ひたちの同時発車
寝台特急の推進運転
この時代に大人だったら絶対旅行したな〜
今は今で便利になってるから過去の人から見たら贅沢って思われちゃうかもしれないけど。
NHKのドキュメント72っていう番組があるんだけど、この時代の青森駅を特集して欲しかった
懐かしい、小学生や中学生だけだと必ず鉄道公安官らしき人に声をかけられた。ある時は本当に逃亡者のための検問やったりしていて、緊張してましたね。
凄ったんですね、青森駅。列車の本数がたくさん。急行八甲田、急行津軽乗ったなぁ。上野行。
この時代、北海道に行くという事は時間もかかって何度も乗り換えて本当に大変な事だったんだろうなあ
それでも色んな風景に浸れると言う贅沢はあったんだろうな…
SHOSHO319
流石に昭和50年代には飛行機が主流ですよ。
乗り換えは青森の1回だけだよ!😜
三十数年前ここで仕事してましたが、本当に懐かしい映像の数数デシタネ上野さんや菊池駅長懐かしいなー.皆どうしてるかなー
新幹線がある今勢力は衰えてますがフェリーはまだまだ現役です。
懐かしい!青森駅がいちばん輝いていた時ですね。
このころ私も新米のポッポ屋でした。
賑やかだな。青森は今みたいに寂れていないんだろうな
このころは、僕はまだ生まれてませんが、昔の青森駅の様子がよくわかります。
貴重な映像ですね。
♪ああ~津軽海峡冬景色~
はやぶさ「石川さゆり」
青函連絡船の廃止前に乗りに行きましたね。ホテルシップなんてのをやってました。
5:35 津軽線の車両は旧客(いわゆるレトロ風)だったんだね…😯
今は🚋701系(青森~蟹田)と🚞キハ40系&キハ48系(蟹田~三厩)だけど😌
懐かしいですね。
90年代は中国大陸で寝台列車を満喫しました。
白鳥2号は、こんな早い時間でも人が乗ってるなんて、驚きました。
青森4時30分着の青函連絡船からの乗り換え客も結構いましたね。
当直の助役さん、地道な安全作業お疲れさまです。
乗ってみたかったです。石川さゆりさんの津軽海峡冬景色を聴きながら
戻りたいね。昭和に戻りたいよ。寝台車が普通に走っていた時代に・・・
別室調査 想い同じく。自分の最後の寝台は大阪発の急行きたぐにでした。
寝台急行ですかぁ…
その通り。あの頃はまだ旅情があった。
神茂樹 今や鉄道は移動の手段でしか無くなりましたね。嫁に汽車旅の魅力を伝えても「交通手段が目的になってる。あり得ない」と全否定されます。風流を解さない人は味気ない人が多いですね。
ペラペラPV 旅情を求めるのなんか一部の鉄オタとジジイだけで普通の利用者は速さと快適性を求めるんだよ、気に入らないならバス使って北海道行けよ笑
行商さんも昭和でぱったりと見なくなってしまいました。気の利いた品揃えが良かったです。
家🏠️の近所では平成後期までいたよ@東京23区😉
乗客が車内でタバコ吸っているところに時代を感じた
近鉄は去年まで吸えたけどね
fal5110 ええ〜ほんと。
この時代は煙草が悪者にされていなかったから、国鉄は都市部の通勤路線を除いて普通列車でも灰皿が付いているのが当たり前。
車内のシーンで窓の下にある四角のやつ。
最近まで東海道新幹線700系と近鉄特急には喫煙車がありました。
健康増進法というやり過ぎ法で消されました。
嫌煙者と完全に分けるなら、吸いたい人には吸わせときゃいいのに。
それだけ鉄道の社会的存在が重要な証拠。鉄道だと今の新幹線🚅の喫煙室🚬にも文句言う奴がいるが、長距離フェリー🚢にも喫煙室🚬あるけど文句聞いた事ないよ😉
あと、この動画の頃は東武鉄道の伊勢崎線系統の普通・準急・快速は禁煙区間:浅草~館林・新栃木、亀戸線、大師線、野田線だった😉
このときの白鳥は確か青森ー大阪間約1000kmを12時間掛けて走破する最長の昼行特急だったな
はくつる、急行八甲田が出発してから数時間で特急白鳥、はつかりが出発する。
ほとんど眠らない青森駅も、青函トンネルが開通し、寝台特急がなくなり新幹線が開通し、寂しくなりましたね。
青函トンネル開通して北斗星、カシオベア、トワイライトエクスプレス、エルム等があった頃の深夜は、また違う賑わいうりましたよ。
午前2時台は上下北斗星にトワイライトエクスプレス行き違いもあり華やかでした!
青函連絡船に何度も乗りましたがその当時は何とも思わない日常の風景でしたが
久しぶりに見てもう一度乗ってみたい。
個人的に思い入れが深いのは、急行八甲田&津軽ですね。関東出身の某大学生の、貴重な帰省列車でした。新幹線?まだ実感わかないなぁ。時代の流れ、ですか・・・
行商のおばちゃんなんてもうほとんど見なくなっちゃったなぁ
新幹線が通った今よりこの頃の方が活気があるように見えるのは気のせいでしょうか。
そりゃそうでしょう
今は新幹線だけでなく飛行機や自動車網が発達したから
早すぎて旅情がない。行くぞ!の気合が違うのかも・・・